観音崎
都心からわずか約1時間の観音崎
三浦半島最東端に位置し、
「近場のリゾート地」としての観音崎。
海辺ではバーベキュー、
丘陵を登れば、地層を見ることができる。
少し歩けば、自然の豊かさに心が洗われる。
海辺の散歩道や、自然と史跡が織りなす観光地
三浦半島における観音崎の位置
観音崎(かんのんざき)は、神奈川県横須賀市鴨居4丁目に位置する岬。
岬周辺の地域を表す地名として用いられることもある。
観音崎は付近一帯が「県立観音崎公園」として管理されています。
観音崎をに行ったら、観音埼灯台へ立ち寄ることをオススメいたしますが、
意外と入り口から距離があり、途中上り坂もあるので、
歩きやすい靴で行くことをオススメいたします。
日本の灯台50選に入る観音埼灯台は、
江戸幕府の晩年に計画され、
明治新政府が建設しました。
概 要
三浦半島東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する。
対岸の房総半島富津岬までは約7kmである。
付近は「県立観音崎公園」として整備され、
観音埼灯台が立地するほか
旧日本陸軍が明治10年代から20年代にかけて建設した砲台と弾薬庫跡が多く残る。
園内には観音崎自然博物館があり、
横須賀美術館が2007年(平成19年)4月に開館した。
博物館横の「たたら浜」には
円谷英二監督の怪獣映画「ゴジラ」で
ゴジラが日本に上陸したところが観音崎だったことにちなむ
ゴジラの足跡がある(実際にはゴジラが上陸したのは品川である)。
園内には墓と見られる多くの横穴が崖にみられる。
また、海上保安庁東京湾海上交通センター(とうきょうマーチス)も公園内にある。
観音崎海水浴場が隣接しており、夏季は海水浴客で賑わう。
観音崎は、開国後の日本にとって最重要ともいえる防衛拠点の一つでした。
東京湾口にグイっと突き出た観音崎と富津岬は、
侵攻してくる敵艦隊を狙い撃ちにしやすい要衝です。
明治政府は当時の最新技術で両岬を要塞化し、
まさに首都東京の最終防衛ラインといえる、鉄壁の構えとしました。
観音崎の丘陵で、ほぼ一番高い場所に設置されていた大浦堡塁(ほうるい)跡には、
第二次世界大戦や、海難事故で命を落としたおよそ6万人の船員の慰霊碑「戦没船員の碑」が建てられています。
眺望がよく、爽やかな海風が肌に快いですよ。
観音埼灯台
観音埼灯台は日本初の洋式灯台として、
旧暦明治2(1869)年1月1日に初点灯した日本最初の洋式灯台である。。
当時はレンガ造りで江戸(東京)湾を照らしていましたが、
関東大震災など二度の地震で倒壊し、現在の灯台は3代目である。
灯台内部の見学も可能(有料 2018年9月現在200円)。
なお地名は観音「崎」だが、灯台の名称は観音「埼」と表記する。
観音崎は、対岸の千葉県富津岬とともに、浦賀水道と東京湾の境界をなす岬で、
その眺望は東京湾随一と言っても過言ではありません。
灯台に上り海を望むと、船舶の往来の多さに驚くことでしょう。
色とりどりの大型タンカーや、運が良ければ自衛隊の護衛艦「いづも」など、
一日中眺めていても飽きない程、多種多様な船舶が行き来しています。
観音崎の要塞巡り
観音崎の要塞巡りでは、
照葉樹林の森林浴も楽しむことができますが、
海辺に続く遊歩道では、海水浴(写真は観音崎海水浴場)や磯遊び、
東京湾を眺めながらのお散歩を楽しむことができます。
観音埼灯台下の海辺の遊歩道にある洞窟「権現洞」には、古い伝説が残っています。
聖武天皇の時代、天平13(741)年春、この洞窟に住む大蛇が、
近隣の漁民や海運に従事する人々を苦しめていましたが、
諸国修業で観音崎に立ち寄った行基菩薩が退治し、
鵜羽山権現として祀ったと伝えられています。
名称の由来
741年(天平13年)、
行基がこの地の海蝕洞に住む大蛇を退治して十一面観音(船守観音)を祀ったと伝えられる。
江戸時代には観音堂など堂宇が創建され
仏崎山(ふだらくさん)観音寺と称し、
幕府から朱印地を与えられていた。
観音寺は1880年(明治13年)に陸軍の砲台建造に伴い
鴨居の亀崎(現・横須賀市鴨居3丁目)へ移転、
1986年(昭和61年)には火災のため焼失してしまい、
現在は小さな堂が残っている。